今日は「選択すること」について考えます。
自分で選択していくことは、信じることと裏表であるように思います。
自分が信じているからその選択をするし、その選択をしたからにはその道をほんの少しでも信じているはずです。
難しいのが、他人に言われたから何かをするというのは選択していると言えるのかということです。
例えば、飲み物で何を買うか迷っている時に友達がこれおすすめだよと言って差し出してきたものを買った場合、それは自分で選択していると言えるのかということです。
直感的に、それは選択しておらず「追従」しているだけと思います。
しかしながら、その友達を信じ、その信じている友達からのおすすめを信じて追従を「選択」していると言えなくもないです。
だとすると、選択していると言えるためには信じていること以外の条件が必要なのでしょうか?
それとも、僕たちがそれは追従だという事例の中にも本当は選択していると言えることがあるのでしょうか?
皆さんはどう考えますか?
僕が選択と信じることは表裏といったのは、もっと選択というのは僕らが思っているよりも曖昧なもので、それは信じるということに近いんじゃないかと思ったからです
特に僕が指摘したいのは、進学についての選択です。
どこの高校に行くべきかや、大学進学をどうするかというのは子供だけの選択の問題としては当然捉えられません、
親の年収や教育願望、地域の学校数など様々な条件が重なっています
しかし、本人にとってそれは自分自身の選択として捉えている様に感じます
少なくとも僕にとってはそうでした。
自分がここに行きたいから勉強していて、親も応援してくれていると少なからず感じていたように思います。実際にそれは事実なのかもしれませんが、本人の選択というには無理がある気がします。
そういう中で下された選択は、どちらかというと信じるということに近いような気がします。
いろんなことが関係して最善が何かはわからないが、ここが良さそうだからここにしようというのは選択ではありますが、その選択は自分のの決定、そしてその道を信じていることから生まれるものだと思います、
その道を信じられるかどうかが重要なのであれば、選択に良いも悪いもないとも言えるかもしれません
具体例としてキリスト教を考えたいと思います、
キリスト教を信じている人が、日曜日に礼拝に行くことは選択していると言えるでしょうか
キリスト教を信じると選択した際に、日曜日に礼拝に行くということも含んでその選択したのかもしれません。一方で、日曜日に礼拝に行くのは選択しておらず信じているキリスト教に追従しただけとも言えそうです。
では、キリスト教を信じると選択した際には知らなかった決まりがあったが、キリスト教の決まりなので守るという選択をする行為は、なぜそれをする必要があるのか考えて動く意味での「選択」ではなく、盲目的な追従、つまり信じることに近い様な気がします
しかし考えてみると、進学に限らず様々なことで同様のことが言える気もします
哲学的には、自由と決定論の問題や、自立とは何かなどの問題に関わるでしょうか
僕らはどう選択していけばいいのか?どう選択に向き合っていく
自分で選択していくというのは、信じるということとどこか似ているような気がする
それが最善なのかわからないし、誰かにこうだって決めてもらったほうが楽なんだけど、結局は自分で選択する必要が出てきて、そのときにどれだけ自分やその選択を信じることができるかによって
道を間違えたというのは何か失敗して、その選択への自信がなくなった時ではないかと思う
結局のところ何がよかったもので何が悪かったというのは人生の最後の最後になるまでわからないものだと思うし(何か良いことにつながっているかもしれない)、究極的に言えば悪い選択というものはなくただ良さの質的な違いに留まるのかなぁとも思う、
でも、どうしようもない家庭環境で育った方について、将来何か良いことがあるよと励ますのはおかしい、
そもそも、それは選択してない、できていない、自由意志とは?
社会的抑圧、
キリスト教を信じるということは、それに付随するさまざまなことを選択している(日曜に礼拝するという選択)
でも信じる
選択というものは自分の力ではどうしようもない決定について選択したとは普通は言わない?
0コメント